◆その15~陰陽道の萌芽と発展
我が国に古くから存在する「賀茂(かも)氏(し)」という一族は、「気と水の流れ」を感じ取り、各地に大地のエネルギーの発生装置として「磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、神奈備山(かんなびやま)」などの聖地を構築していきました。
彼らは、大王家(おおきみけ)が入国する以前から、大和の地で神々の祭祀を司った神聖氏族で、「神―カミ」という言の葉も、彼らの氏族名「カモ」に由来します。気と水の流れを読み取るために、水鳥の鴨のように移動していくことから「鴨(かも)氏(し)」とも称されました。
やがて大陸から道教(どうきょう)や神仙(しんせん)思想(しそう)、奇門遁(きもんとん)甲(こう)、陰陽(おんみょう)五行説(ごぎょうせつ)などの新しい文化が移入すると、己が祭祀行法、宗教思想に取り入れ、そこから後の陰陽道の萌芽とも呼ぶべきものが生まれていきました。
飛鳥・奈良時代の賀茂氏を代表する人物では、賀茂(かもの)吉備(きび)麻呂(まろ)卿がおられます。この方は遣唐使、政治家として名を馳せ伝説ともなった初期の陰陽師 吉備真備(きびのまきび)卿(きょう)と同一人物ともされます。同時代の人では修験道の開祖 役(えんの)行者(ぎょうじゃ)様も賀茂氏の出であられ、陰陽道の基礎は、このお二方の偉大な霊能者によって築かれたのです。
そして、吉備麻呂卿から六代目、平安の世における陰陽の術者として知られる賀茂(かもの)忠行(ただゆき)卿の弟子の安倍(あべの)晴(せい)明(めい)公(こう)によって、陰陽道が大成されました。ジャンルは違いますが、鎌倉初期の随筆家で歌人の鴨長明師(かものちょうめいし)も、ある種の陰陽道家であられたと考えます。
そして私、天佑も、五代前の祖母ハヤが、賀茂氏の一族である橋家(はしけ)の出であり、近い縁者に作家の三島(みしま)由紀夫(ゆきお)先生がおられます。先生との御縁はもちろん、陰陽の術者である賀茂の血を引くことに、大きな誇りと責任を感じるのです。
ゆかしくぞ めをみちつたふ かものちは
あがみうちにも ながれゆくなり
(由しくぞ 陰陽道伝う 賀茂の血は
吾が身内にも 流れ行くなり)
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