◆その16~陰陽道の光と影

陰陽師-穂積天佑のコラム

 前回、陰陽道の成り立ちで触れた安倍晴明公は、時の権力者 藤原道長公の相談役として大きな力を持ちました。その五代目子孫の安倍泰親公は、平安末期の動乱時に数々の事件を予知し的中させ「指(さすの)御子(みこ)」と称えられ、その末裔は土御門家として陰陽道宗家へと成長していくのです。また晴明公に陰陽道を伝えた賀茂忠行公の子、保憲公の子孫は、勘(か)解(げ)由(ゆ)小路(こうじ)家となって戦国時代まで続き、その庶流の幸(か)徳井(でい)家は、陰陽道のもう一つの家元として活躍していきます。

 その後、鎌倉、室町、戦国、江戸と時代が変遷していく中で陰陽道は、人びとの精神生活を支える指針として大きな力を持ち続けました。江戸時代、将軍のお膝元江戸は、一時期人口が二百万人を数えるまでになりました。それほどの大都市にもかかわらず治安が大変良かったのは、陰陽師たちが構築した風水環境と、彼らが常に庶民の相談相手になっていたから、という説もあります。

 しかし明治維新の頃になると陰陽道は「科学、医学の発展を妨げるもの」とされ、明治三(一八七〇)年の天社禁止令により歴史の表面から姿を消します。精神界の指導者であった陰陽師たちは離職を余儀なくされ、困窮な生活を強いられ、謂れなき差別を受けるのです。私の高祖父 力衛の生家 小澤家は、土御門家配下の長い歴史を誇る陰陽師でしたが、この時、大きな打撃をこうむりました。一族の中には行方知れずになった者もおり、私も陰陽師の末裔ということで小中学生の頃、ひどいイジメと差別にあいました……。

 そして平成の時代に百数十年の眠りから目を覚ました陰陽道は、小説、映画、アニメーションの世界で史実とかけ離れた華やかな描かれ方をしていますが、本当の末裔たちが経験してきた苦難の過去は誰も知りません。自称陰陽師なるタレント占い師たちの活躍で、これまでとは違う面から世の注目を集めることにはなりましたが……。

ちとせふる こころのをしへ めをのみち
           よのすくひとぞ よみがへるなり

(千歳経る 心の教え 陰陽の道 世の救いとぞ 蘇るなり)

穂積天佑

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先祖である穂積濃美麻呂が陰陽道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)より陰陽の秘法を授けられ、また同じく師の先祖となる菅原宮内少輔道景は、あの平安時代の大陰陽...

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